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コースタイトル:いま「戦後民主主義」を問う
コース概要:敗戦直後のベビーブーマー「団塊の世代」は、幼年期から青年期にかけて、高度成長経済、バブルとその崩壊などを経験しながら、いまは後期高齢者として、少子高齢化の元凶とまで言われている。世代論の限界を考慮しても、この年齢集団には戦争の直接的責任はないものの、戦争責任を時効なく裁き、未来の世代に継承していく責任はある。
敗戦直後の急激な人口増は、軍関係者の大量の帰還と深くかかわっている。団塊世代は、アメリカの占領下に生まれ、戦後の民主教育に触れる間もなく、朝鮮戦争と朝鮮特需を目の当たりにしつつ、急激に「右旋回」していく学校教育を受けた(➝勤評闘争)。一方で、東京オリンピック(1964年)、大阪万博(1970年)などの物質的恩恵に浴しながら、他方で、ベトナム戦争、沖縄返還、成田闘争、日韓条約反対運動などを通じて、学園闘争における全共闘運動(68、69年)の主体になっていった。その根底には、「戦後民主主義」の内実に対する違和感が少なからずあった。
「戦後民主主義は虚妄であった」とする大熊信行の発言に対し、東大教授(政治学)の丸山眞男は「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」と批判した。しかし、この話法を全共闘世代は「戦前に戻るくらいなら、占領軍が残した民主主義のほうがマシだ」という戦後知識人のレトリックと受け取った。「戦争責任を裁くことなく、虚妄な戦後民主主義に賭ける」ことは、戦前・戦後の連続性を、結果として許容することになると考えたのである。
しかし、この時期の知識人も学生も、アジアへの加害責任、天皇の戦争責任、アメリカの原爆投下の罪を追及することに失敗した。その結果、「戦後民主主義」は「戦後政治の総決算」の対象にされるという攻撃にさらされている。
(※ 大熊信行「軍事占領下に政治上の民主主義が存在したという考えかた。これは一言にして虚妄である。にもかかわらず、民主主義が樹立され、そしてそれが育ったかのように見えるとすれば、育ったもの自体が、そのなかに虚妄を宿しているのである」(「日本民族について」『世界』1964年1月号)。丸山眞男「私自身の選択についていうならば、大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」(「増補版への後記」『相補版 現代政治の思想と行動』未來社、1964年)
参考文献
山本明宏『戦後民主主義~現代日本を創った思想と文化』(中公新書、2021年)
「現代日本はいったいどこから来て、どこに向かおうとしているのか。それを知るためには、戦後民主主義の検証作業は欠かせない。戦後民主主義と総称される思想や態度は、戦後社会のなかで、どのように現れ、いかに人びとに受け止められてきたのだろうか」
◎参考映像:
ETV特集「丸山眞男と戦後日本」(1)~民主主義の発見~(96年11月18日)、「丸山眞男と戦後日本」(2)~永久革命としての民主主義~(96年12月20日)、
「戦後民主主義の原点を問う」(1)~丸山眞男と戦後日本~民主主義の発見~評論家 佐高 信(97年8月11日)
曜日:火曜日 原則隔週
時間:19:00-21:00
開催方法:オン・オフ開催
-オンライン定員:50名
-オフライン定員:10名
講師:桜井均(映像ジャーナリスト・元NHKディレクター/プロデューサー)
コーディネーター: 山岡幹郎(写真家)
◆第1回 戦争を忘却する村
開催日:2023年3月7日(火)19:00-21:00
講師:桜井均(映像ジャーナリスト・元NHKディレクター/プロデューサー)
概要:視聴映像:特集ドキュメンタリー『皿の碑』(1974年8月9日)
松山市郊外の久谷村は、戦争中に1000人が出征し、300人以上が戦死した。村の出身者相原熊太郎は、都新聞(現東京新聞)の記者を退職したのち、村の戦死者の家を一軒一軒訪ね歩き、戦死者の職業、人柄、最後の状況を聞き書きし、七五調の「いろは歌」にまとめた。それらを砥部焼の皿に焼き込み、靖国の思想とは異なる「相互慰霊の塔」を建てることを提唱した。しかし、彼の訪問は歓迎されなかった。
彼が活動した1947年から49年頃は、一方でGHQの目を怖れ、他方で講和条約後の軍人恩給の復活が囁かれる時期と重なる。相原熊太郎は300余枚の皿を四六番札所浄瑠璃寺の裏に捨てて村を去った。NHKがそれを発見し読み込んでいくと、そこには軍人のほかに広島で被爆死した女性、何の補償も得られない少年兵、朝鮮人の徴用兵の歌も記録されていることがわかった。相原熊太郎は90歳を超えて、東京荻窪の線路沿いの家に存命だった。だが、すでに視力を失い、記憶も薄れていた。
取材の最後に「縁の下の皿をどうすればいいか」と問うと、老人は「あのとき村の人が気づかなかったのだから、寺の縁の下に埋めておけばいい」と語気を荒げた。取り返し不能な時間のなかで活動するジャーナリストの矜持を感じさせた。戦後30年を経て、ローカル放送をきっかけに相原熊太郎は「村の恩人」となった。遺族会は、熊太郎構想とは似ても似つかぬブロック塀に、一部内容を変えた「皿」を貼り付け、盛大な慰霊祭を行なった。その場に、相原熊太郎と朝鮮人の夫を亡くした妻の姿はなかった。戦前・戦後を通して、村人の意識を支配してきたのは「大勢順応主義」と「集団的忘却」という時間であった。
◆第2回 東京裁判が裁かなかったこと(1)天皇
開催日:2023年3月21日(火)19:00-21:00
講師:桜井均(映像ジャーナリスト・元NHKディレクター/プロデューサー)
概要:
参考映像:
< A >「天皇の戦争責任」関連>
①『東京裁判への道~何が、なぜ裁かれなかったのか~』(92年8月15日)
②『秘録 高松宮日記の昭和史』(96年6月23日)
③『昭和天皇・二つの「独白録」』(97年6月15日)
④『昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録“拝謁記”~』(19年8月17日)
⑤ETV特集『昭和天皇が語る 開戦への道』(21年12月11日)など、天皇の戦争責任免責の歴史
< B > 映画「三島由紀夫VS東大全共闘~50年目の真実~」(22年3月20日)で触れられた天皇の責任(抄録)
NHKは、冷戦終結後、東側から大量に流出した資料に着目し、昭和天皇の戦争責任を傍証するさまざまな資料をもとに番組化してきた。NHKスペシャル『東京裁判への道~なにが、なぜ裁かれなかったのか~』は、米国務省が、戦後の日本統治を、東西冷戦の最前線の構築の場ととらえるなかで、米国民の世論調査を無視して、天皇制の温存と天皇の免責を前提として「東京裁判」に臨んでいたことを新資料によって裏付けた。
同『高松宮日記の昭和史』では、海軍に属していた高松宮が12月8日未明の真珠湾攻撃計画を知っていたことを、日記の記述と高松宮妃の証言で明らかにした。兄裕仁天皇は、最後の御前会議(1941年12月1日)で、米英との戦争は避けがたいとの聖断を下したが、12月8日の真珠湾の奇襲攻撃計画は知らなかったとして、天皇は訴追されなかった。『高松宮日記の昭和史』では、弟高松宮が知っていて、なぜ兄が知らなかったのか、そこにアメリカの本意が隠されていることを傍証した。同『昭和天皇・二つの「独白録」』は、東京裁判対策として側近に記録させたもので、長いあいだ日本語版のみとされていた。しかし、英語版がマッカーサーの副官フェラーズ准将のもとに保存されていることがわかった。そこには、天皇の軍部批判の言葉が大量に書かれていた。「もしも彼らに反対をしたなら、自分の命までが危険にさらされ、終戦の詔勅を出すこともできなかっただろう」。しかし、昭和天皇の「独白録」は使われることなく、東京裁判は開廷された。
以上の三部作は、厳密な資料考証によって、昭和天皇の戦争責任を明確にしたものである。
◆第3回 東京裁判が裁かなかったこと(2)731人体実験
開催日:2023年4月4日(火)19:00-21:00
講師:桜井均(映像ジャーナリスト・元NHKディレクター/プロデューサー)
概要:
参考映像
731部隊の犯罪
①現代史スクープドキュメント『七三一細菌戦部隊』(前後編)(解禁になった東京裁判の舞台裏、米が没収した資料、ハバロフスク裁判記録)
②NHKスペシャル『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験』(17年8月13日)(日本学術会議にも触れ、科学者の戦争責任を問う)
731部隊の生体実験の罪(人道に対する罪)は、東京裁判で裁かれなかった。アメリカは、その訴追に消極的だった。なぜか。同じころ、ソビエトは、満州から731部隊の医学者などを拘束し、ハバロフスクで実態の解明を継続し、恐るべき生体実験の克明な内容を把握していた。ソ連代表は、東京裁判で731部隊の犯罪を裁くべきだと主張したが、各国の反応は冷たかった。アメリカは、ソビエトが生体実験に触れたことで、重大なヒントを得て、73Ⅰ幹部の不訴追を条件に、人体実験の「貴重な成果」の入手を最優先した。
ハバロフスク裁判で、医師柄沢十三夫は、切実な証言をした。その生々しい録音が残っていた。日本軍の犯罪を一科学者の良心をかけて告発したのである。しかし、彼は釈放され日本に帰る直前に自殺した、といわれる。
2020年9月、日本学術会議が推薦した候補者のうち6人が、菅義偉首相によって任命拒否された。それには前哨があった。2016年の学術会議は、「731問題」をとり上げ、科学者の軍事協力が議論の中心に据え、協力拒否の姿勢を明確にしていたのである。20年の「任命拒否」は、そうした学術会議の精神が骨抜きになる契機をはらんでいた。
しかし、菅元首相の行為はいまだに撤回されず、執行部の責任が曖昧なままである。ウクライナ戦争、台湾危機をあおって、アメリカから攻撃用武器の大量購入を「防衛増税」でまかなおうという議論はそうした「曖昧主義」の結果とも言える。
◆第4回 東京裁判が裁かなかったこと(3)原爆投下
開催日:2023年4月18日(火)19:00-21:00
講師:桜井均(映像ジャーナリスト・元NHKディレクター/プロデューサー)
概要:参考映像
①米コロンビア大学編集『広島・長崎・1945年8月』(1970年に日本に返還・公開)
②特集番組『そして男たちはナガサキを見た~原爆投下兵士・56年目の告白~』(2001年8月9日)
③NHKスペシャル『解かれた封印 米軍カメラマンが見たNAGASAKI』(2008年8月7日)
④NHKスペシャル『封印された原爆報告書』(2010年8月6日)
アメリカは広島・長崎への原爆投下直後の惨状をどのように見ていたのか。戦略爆撃機の搭乗員たちは、被害の実態を見ていない、その結果、罪の意識がないというのが定説であった。しかし、それが事実と異なる言説であることがわかってきた。原爆投下機エノラ・ゲイの搭乗員は佐世保空港に降り立ち、陸路長崎の爆心地を見聞した。原爆投下の精度を確認するためであった。また、アメリカの科学者たちは原爆投下直後の広島で、放射能の人体への影響を調査していた。
そして、アメリカは日本の撮影隊が記録していた被爆直後の広島・長崎の映像を没収し、本国に持ち去り、日本人の目から被爆の惨状を遮蔽していた。1970年、米コロンビア大学が編集した『広島・長崎・1945年8月』が、日本政府を介して返却された。もし、この映像が被爆直後に公開されていたら、原爆とアメリカに対する日本人の意識は大きく変わっていたかもしれない。そして、同様の無差別爆撃を日本軍も中国の重慶、フィリピンのマニラなどで行なっていたことを自覚する契機となったかもしれない。
アメリカは、いまだに原爆投下は日本の敗戦を早め、日米両国民の生命の損失を最小限に抑えたという主張を変えていない。東京裁判で原爆が裁かれれば、アメリカの戦後の地位は大きく揺らいだだろう。昭和天皇も、終戦の詔勅のなかで、アメリカの原子爆弾の被害を見て、これ以上継戦すれば、日本国民のみならず、人類破滅につながるという理由で、ポツダム宣言を受諾したことになっている。ここに日米合作の「戦後民主主義」のイデオロギーが見え隠れする。
「戦後政治の総決算」などという欺瞞がまかり通るようになったいま、虚妄を内包する「戦後民主主義」を、それでも改善して行こういう日本版「永久革命論」を、厳しく批判していく責務は私たちに課せられている。
◆第5回 戦争責任に時効はない
開催日:2023年5月2日(火)19:00-21:00
講師:桜井均(映像ジャーナリスト・元NHKディレクター/プロデューサー)
概要:視聴映像:NHKスペシャル『映像の世紀 ナチハンター』(2022年12月12日)
連合国は、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、日本の戦争指導者の戦争犯罪を審判し、七名を絞首刑に処した。しかし、天皇の戦争責任、七三一細菌戦部隊、米の原爆投下については訴追することなく、日本人のなかに、戦争責任追及の不徹底を定着させた。まさにこの時期(1946年5月~48年11月)は、東西冷戦の前夜であり、裁判も連合国間の駆け引きの場となった。そうしたなかで、昭和天皇は、アジア・太平洋戦争を泥沼に導いたのは「付和雷同する国民性と狂信的な軍部の暴走であった」との認識を持ち、もっぱら軍部批判を行なった。天皇の御用掛木下道雄の『聖断拝聴録』には、「負け惜しみと思うかもしれぬが、敗戦の結果とはいえ我が憲法の改正も出来た今日に於て考えてみれば、我が国民にとっては勝利の結果極端なる軍国主義となるよりも却って幸福ではないだろうか」とある。歴史忘却の根本がここに読める。
しかし、ドイツではニュルンベルク裁判が終わった後、70年代になって学生運動を中心に、「戦争責任に時効はない」という市民運動が活発になった。「大規模な大量殺人は、社会に適合する人間がいれば可能になる」という思想は、日本の大勢順応主義と対極にある。その結果、ドイツのみならず、被占領下フランス・ヴィシー政権の対独協力者も時効なく裁かれた(モーリス・パポン裁判)。これに対して、日本のA級戦犯容疑者、岸信介、笹川良一などは釈放された。(➝その後の旧統一教会との関係)。
70年代の運動は85年のワイツゼッカー大統領演説に結実した。「自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできない」が、「だれもが過去からの帰結にかかわり合っており、過去に対する責任を負わされている」。歴史忘却主義の対極にある。
団塊の世代の全共闘運動の限界を考える。
◆第6回 愛国とジェンダー
開催日:2023年5月16日(火)19:00-21:00
講師:桜井均(映像ジャーナリスト・元NHKディレクター/プロデューサー)
概要:視聴映像:
MBS毎日放送 映像’17『教育と愛国』(2017年)(斉加尚代)
NHK ETV特集「女たちの戦争画」(2022年)(藤村奈保子)
2006年に教育基本法が改変された。以後、公教育の現場で「愛国心」を教える圧力が強まっている。特に歴史教科書をめぐってはいまだにさまざまな混乱がある。『教育と愛国』は、そうした実態を克明に追った放送である。安倍的なるものが残したファッショ化は、彼の殺害によってうやむやにされようとしている。ETV2001「問われる戦時性暴力」の改ざんも、従軍慰安婦問題を教科書から削ることを求める『歴史教科書を考える若手議員の会』(安倍晋三元首相は事務局長)からの圧力の結果と見ることができる。『教育と愛国』は、まさにその問題において通底するものを持っている。
しかし、アジア・太平洋戦争は、日本の近代国家建設の過程で轢断してきたものの存在を抜きにして語ることはできない。個人が覚醒する前の翼賛体制(ファシズム)の陥穽である。大東亜の解放と言いながら、ヨーロッパ諸国の植民地主義を模倣した。しかし、彼の地では戦後になって、他者を犠牲にしてしか成り立たなかった国家建設は、徹底して総括されてきたのである。
日本では戦前・戦後は連続として受容されたが、ドイツ、イタリアなどでは断絶が主たる目的となった。そうした「しかたなくない」歴史観は、社会の周縁部にいて権力に同調せざるをえなかった人々、そして戦後になってまともに話に乗ってもらえなかった人々をも呼び出した。日本で言えば、従軍慰安婦の女性たちのカミングアウトを、金銭目的と言うヘイトスピーチで、二度目の沈黙を強いてきた。このまま、放置すれば、さらなる「レイプ」を再生産することになる。
愛国教育の原型は、戦中の銃後の翼賛体制にある。文学報国会、国防婦人会の活動に領導されるように、女性の戦争賛歌も少なからずあった。戦後民主主義を考える場合、こうした総動員体制が内部に生産した「無意識の加害意識」までも考えなければならないことが、わかってきた。しかし、時間はない。その事実を語る者も、事実を裏づける人も時間の淵のなかに消えていく。しかし、意識を継承する人々はいま、新たな総動員体制によって、背後から押さえつけられそうな状態である。
『女たちの戦争画』に登場する女性たちの分裂と加担意識との縫合はどのようになされれるのか。
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